茶心香心堂

日本のお香の歴史

LINEで送る
Pocket

 

日本のお香の歴史

 

日本のお香 +α お茶の歴史。

背景
4世紀に大和朝廷の統一。
朝鮮に出兵し、朝鮮南部に任那日本府を建設する。
百済・高句麗・新羅三国の文化が入ってくる。

 

仏教の伝来

日本のお香の歴史は仏教の伝来とともに始まります。

6世紀、西暦552年頃。古墳文化時代、欽明天皇の時代。

(宣化天皇3年西暦538年とも言われます)

百済の聖明王より仏像と経典が送られ、それが仏教が日本に公式に伝わったとされています。

百済から仏教と同じく、医・易・暦なども伝来します。

仏教信仰が、全てに受け入れられたわけではなく、反対派の物部氏と仏教信仰の蘇我氏の戦いがありました。

蘇我氏が勝利することにより、仏教が障害なく日本に拡大していきます。

お香は、仏教の布教のために、沈香などの香木を単品で焼香したと考えられています。

 

日本書紀には以下の記録が残されています。

推古天皇3年西暦595年、乙卯の春、土佐の国の南の海に夜大いなる光あり。
また声あって、雷の如し。三十ケ日を経て、夏四月、淡路島の南の岸に着す。
島の人、沈水を知らず。薪にまじえて竈に焼く。
太子使いをつかわせて、その木を献ぜしむ。
その大きさ一囲、長さ八尺なり。
その香気、薫ずることはなはだし。

聖徳太子はその薫りのする木を沈水(沈香)だとわかっているわけですから、既に持っている又は使用していたことが察せられます。

また、日本書紀には、香原料や香炉、香炉を用いて香を焼いて礼拝したという記述があります。

 

 

鑑真和上と香薬

8世紀、奈良時代の天平と呼ばれる頃には、大安寺の資財帳や法隆寺の財産目録に香料の記述があります。

聖武天皇が唐からの授戒のできる僧を招聘し、鑑真和上が来日します。
鑑真和上は、高僧である上に生薬、薬のエキスパートでもあり、目が見えなくなっても香りで品質の良し悪しがわかったそうです。
生薬を合わせた調合ができ、丸薬等の薬を作ることができました。

 

その後、各種香料を合わせる丸薬は、薫りを楽しむ薫物(練香)に変化していきます。

正倉院も建立され、その中に、日本で一番有名な沈香銘蘭奢待や各種香料、防虫香の元であるえび香も収められています。

 

 

平安貴族と薫物

9世紀以降平安時代になると、貴族の文化になります。

仏教の焼香儀礼はそのままにありますが、仏様へのお供えとは別に、人間が楽しむ・文化としてのお香の時代が始まります。

源氏物語で重要なキーポイントの薫り。 貴族たちは、季節に合わせたりその人を想って、香原料を調合して薫りを創作し始めます。

薫物(現練香)を自分達で作り、薫りを焚きしめ、その薫りを競い合うようになりました。

薫りが自分達のものになった瞬間です。

 

そして、平安末期、後鳥羽上皇の頃、栄西禅師が宋から帰国し、臨済禅を唱え、茶を日本に伝えます。

 

 

武士の禅と沈香の世界

平安末期からの政争が続き、鎌倉時代は、平氏が現れ滅び源氏が現れと、武士の世になります。

度重なる戦で疲弊した人々やまた武士も同じで、色々な仏教の宗派を取り入れていきます。

その中で、自ら悟りに達することを目的とする臨済宗の禅が武士に受け入れられました。

禅宗は、無用なものを削ぎ落した美しさ、静寂、清浄の世界。水墨画や枯山水など。

用いるお香はそれまでの調合した薫物ではなく、沈香のただ1木(片)だけ。

 

茶心香心堂はお茶のクラスもありますので、合わせてこの頃のお茶もご紹介します。

禅院のお茶も、色々な食材を混入するお茶から茶葉だけのお茶になります。
武士の世界では、栄養補給のお茶が、味わうお茶となったのです。
鎌倉幕府の重鎮、金沢貞顕の文書を読むと、日常的に客に茶で接待をしていることが伺えます。また、伊賀国のお茶、京都のお茶を手に入れていました。

 

武家における茶の流行は、闘茶にも発展します。

鎌倉末期には、闘茶「茶香十炷」が起こります。
茶香十炷というのは、十種類のお茶、十種類のお香の銘柄を当てる勝負です。賞品がかけられ賭博となります。
賭博の対象となるほど、各地で名産のお茶が生産されていたことも意味します。

 

南北朝時代

沈香にも様々な薫りがあり、そのものの薫りを味わう。それを楽しんだのが武将の佐々木道誉(京極高氏)です。

沈香のお香木に銘を付け、香木の収集家でした。
沈香だけでなく連歌や茶、花にも精通した人ですが、それまで足利尊氏についたり、反対につき、また足利尊氏が強いとみると尊氏につく。
捉えどころない自由人。連歌など彼の右に出る人もなくと言われるほど、頭がよく自分がよいと思ったことをする型破りの人。周りとは関係なく華美に沈香を焚いたり、美意識以上のその様を婆娑羅と表現しています。

 

 

室町時代が芸道の出発点

足利義満は金閣寺を建てました。明との勘合貿易を行い、芸術品を輸入します。

茶の湯や挿し花が流行します。

その後、応仁の乱が起こり、足利義政は治政のセンスがなく隠居し、京都東山に山荘を築きます。

そこで、義政は芸道に非凡な才能を発揮し、当時の数寄者が集まりながら日本の今も続く芸道、華道、茶道、香道のもとがつくられました。
お香の聞き比べは、聞香として香道になり、お茶の飲み比べ闘茶も、寺院や公家の間で上品な競技・行事となりました。

 

 

安土桃山時代 信長が手に入れたいのは蘭奢待か切り取れる権力か

16世紀、織田信長は、正倉院の宝物である蘭奢待を切り取らせます。
沈香 銘蘭奢待は天皇家の宝物です。それを切り取るというのは、信長がお香好きというより、以前蘭奢待を切り取った、足利義満、義政同様に、「切り取れる権力を持つもの」の象徴として、所望したとも考えられます。

その後、豊臣秀吉の時代になります。
秀吉は、千利休との係わりもあり、茶の湯の造詣が深かった人です。
茶の湯とお香は切り離せず、お香についても興味を持っていたかもしれません。蘭奢待を切り取らせた話しもありませんし、どのような沈香や伽羅を持っていたか、今となってはわかりません。しかし、沈香を容れる明製沈箱を持っていました。

現代では、茶道も香道も女性のお稽古の人気ですが、昔は武将の嗜み、政治的な駆け引きも茶の湯とお香を舞台に行われていたかもしれません。

 

 

 

江戸時代 家康の伽羅

17世紀、徳川家康が江戸に幕府を開きます。
家康は伽羅の収集家で、現在も名古屋の徳川美術館に多くの香木が残されています。
現在の中部ベトナム、ミーソン遺跡あたりにあったチャンパ王国の国王に、伽羅が欲しい旨の手紙を多く送っています。

そして、今までは、時の権力者、施政者など、一部の人間しか手にすることのできなかった沈香、お香。
何故なら、香木はどれも海外から輸入し、とても高価なものであったからです。

しかし、この江戸時代になると庶民の手に入ることになります。
当時、嗜みや諸芸、祝言、懐妊、雑学などが書かれている本女重宝記」には、香の使い方などが説明されています。
池波正太郎の時代小説でも度々お香が登場します。

線香も普及されてきたといいます。

三代将軍家光の時には、宇治茶が江戸城に納めるお茶壺道中が制度化されています。

 

 

 

明治時代

廃仏毀釈により寺院の弱体化、欧化政策により、日本芸道離れが起こりました。
結果、お香を使う人が減ってしまいました。

 

大正時代

合成香料の線香が国内で生産されだしました。

 

昭和時代

お香原料が全て輸入品であったため、太平洋戦争中、後は、手に入れることができずに、焼香の原料は、国内で採取される杉や檜の葉などを用いていたと言われます。
それにより、薫りがよいというより、煙がでて焼香や線香になればというもので、結果、香木で仏を供養するということができませんでした。

昭和の終わり頃に、日本にアロマテラピーが入ってきます。

それ以降、ハーブや天然素材も注目されてきました。お香もインセンスではなく、自然派志向が多くなったと肌で感じています。

しかし、今も、価格を下げるため、薫りを長持ちさせるため、薫りがわかりやすい、求められるという理由で、合成香料は使われています。

 

 

参考文献 

茶の事典 朝倉書店

香料 日本のにおい 法政大学出版局

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントは受け付けていません。

LINEで送る
Pocket

各種講座・サービスに関するお問い合わせはこちらから

メールでお問い合わせ メールでお問い合わせ arrow_right
PAGE TOP